2011/12/29

seamless time 2011


上の写真はアフリカにあるゴースト・タウンの写真。一時期はゴールド・ラッシュにより栄えたけれども、今ではこんなに美しく砂に埋もれてしまって居ます。下の写真は、クリストとジャンヌ・クロードによる青い美しいパラソルの作品。期間を決めている作品なので、もちろんもうありません。こういうシンプルな美しい事、大好きです。

とても個人的な2011年を振り返ると、今年はまずHiroshi Watanabeさんと1年以上かけて練り上げた「Night of the Vision」を発表する事が出来た事が何よりも重要な喜ばしいことでした。作品にまつわる発表の場を積極的に持てたこと(ひとりで取り仕切り、とてもとても大変でした。しかし助けてくれる人々が居たことがあまりに感動的でした)、作品を通してつながる事が出来た人々がいたこと(あらゆる人々。マニュエル・ゲッチングまで!)作品を気に入ってくれた方がいたことなど(これ以上の価値が見あたりません)、「自分の音楽を発表する事」でささやかな輝きを得られた1年となりました。
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さてここからはつらつらと脈絡の無いことを書きます。

まず突然な事を言ってしまいますが、(自分のために書きとめておきます)私は「絶対的に無関心な音楽をやる事、それを極めてゆくこと」が、求めている事であると思いあたりました。そしてそれがなんらかの「ビジョン」から発生している事も。「絶対的に無関心な音楽」とは、例えると、この世の壁一枚向こうに別の世界があるような音楽のことです。私は、それにこそ救いがあると想像しています。

私にとっての喜びが、そのような音楽を表す事であるので、自分に必要なのは、表現の技術を上げる事と、例えどんな堕落した世の中やハードでヘビーな生活にあっても、集中して強い意志で何かを作り上げる精神力です。そして何か本で読んだかどこかで小耳に挟んだか程度の価値しかない様な、何らかのセオリーには耳と心を貸さ無いこと。
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世の中が流れていることがひしひしと感じられた1年でした。「流れ」があって、それはどうしようもない事であるのだなあ、と。そして流れはまだまだ始まったばかりで未熟で、まだこの先もずうっと流れて行くのだなあ、などと、スターパインズ・カフェの舞台裏でぼおっと考えたりしました。それが諦めの情から来ている思いではないことを願います。
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さて、特に音楽をやる上で今年と来年に境目があるわけではないですが、来年はまた作品を作り始めるつもりです。3作ほど、取り組みたいコンセプトがありますので、ゆっくりとじっくりとやってゆきます。また、音楽以外では新たな興味のあることにかじりつく事。それは「日本の歴史、文化、思想」「東洋の思想」「文化人類学」「言語学」「ドイツ語」とこれまた雑多で大雑把ですが、それらを通して何か新しいビジョンがバチッと生まれる事を願って気楽に取り組もうと思います。
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今年は4月に3週間かけてベルリン、ハンブルグ、パリに行ってきました。ベルリンのカフェにてふと思い当たったことがありました。それは最もさびしいことは、誰からも愛されないことではなくて、誰の事も愛していないことだ、ということです。なんの贔屓目も持たないで自分を探ってみると、間違いや思い違いを犯していることにすぐ気がつくのですね。
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最後に。
来年は1月15日、1月27日、3月3日にライブを予定しています。また詳細などは改めてお知らせいたします。

それでは、皆さん今年も1年ありがとうございました。来年もMINGUSSをどうぞよろしくお願い致します。良いお年をお迎えください!!

2011/12/22

IZIDOA Color : Blue Velvet and Gold no2





何はともあれ、濃いミッドナイトブルーのベルベットと、黄金色、という組み合わせがもっとも良い。レーベルのイメージカラーは"Blue Velvet and Gold"です。写真の色はまだいまいち。もっともっと暗く濃い青が良い。で、このライオンはちょっとカワイい。national geographic で見られますよ。

2011/12/08

poetic



以前、横尾忠則さん見たさと言うミーハー心で倉俣史朗展に偶然足を運んだ際、横尾さんそっちのけで(あ、失敬)倉俣史朗さんの作品に直ぐに心を掴まれてしまいました。ビジョンがあり、粋で、見る者の想像をかき立てるような洗練された作品に、この作品に合う音楽を作りたいと心底思いました。

中でも、「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」と言う銀色の細い鉄の網で作られた美しい椅子を目にした時、一瞬で、(クラバー的に表現すると)、両手を天に向かって掲げたくなりました。夢の中で見たものを目にした様な・・。豊かでありました。とても、瑞々しく、詩で出来ている椅子でした。

倉俣さんがインタビューの中でしきりに「タルコフスキーの映画に強く影響を受けた」と言っておりました。中でも「惑星ソラリス」のあるシーンが強い印象を残している、と。私がそれを聞き逃すはずも無く、いつか見よう、それもなるべく後にみよう(すぐみてはもったいないし)と決心していました。しかし、最近ライブのオファーに関わる事でもあり、タルコフスキーの「鏡」を見たのです。

「鏡」

映画にこんなにも、感覚が動かされるとは想像していませんでした。一体どういう事なのでしょう。あんな映画は初めてです。映画の内容が分からない、と言うのでは無く、あの映画によって気づかなかったある感覚の持ち方が目覚めさせられた、と言った感じです。あの映画に一体何が含まれているのか、と思いました。内容や音や映像以外の何かが、始めから最後までに息づいて移ろって行きました。理解出来ない存在が感じられて、すっかり驚いてしまったとともに、倉俣史朗さんの作品の事も思い浮かびました。

私はまだ何も結論づけられていませんが、タルコフスキーや倉俣史朗さんに感じるもの、それは詩であり、祈り(これについてもまだ感覚でしかわかりませんが・・)であり、、とても陳腐な表現ですが、、それ以外の内面的ななにかであるんだろうと思います。はっきりとしたビジョンや手を伸ばしたい場所やなにか。

今、この時、極々個人的に受け継いでゆく感覚と言うのが、私には重要に思えます。