2015/08/25

faith

 PHOTO: Kiyoshi Yagi

その人の話しを聞いたとき、また読んだ時に、霊感が刺激されて途端にバッと目の前が開ける様な人々が居ます。音楽家に限らず・・むしろ随分長い事、音楽家ではない人々の話しや考えに触発されて来ています。レヴィ・ストロース、川田順造、堀文子、海童道祖、メビウス、ジェームズ・タレル、セシル・バルモンド、クリシュナ・ムルティ、野口晴哉・・

そしてごく最近では、写真家の八木清さん、水越武さんです。

もう半年以上前の事になりますが、1月末、Photo Gallery Internationalでの写真展「Silat Naalagaq〜世界に耳を澄ます」に合わせて開催された、八木清×水越武 トークセッションへ、とにかくこれは絶対に行かなければならぬ!と嬉々として行って来ました八木清さんの写真や文章に惹かれていたのですが、水越氏の事は恥ずかしながら良く存じ上げないまましかし何かこのトークイベントにはビビッとくるものがあり、即予約をして娘を実家に預ける計画を立て・・当日は夜の旧海岸通を行きも帰りも急ぎ足で駆け抜けました

その小さなギャラリーで繰り広げられていた会話は、思った通り相当に刺激される内容で、半年経った今でも言葉にするにしきれない新たな指標を与えてくれました。

特に、人間の測る事の出来い範囲においての「空間時間・秩序」の感覚を、お2人の実体験を通した言葉から感じる事が出来た事が、素晴らしかったです。

私の「時」や「空間」の感覚は、限られた範囲でのものでしかない。知り得もしない、足も踏み入れられない様な場所においては、その場所に合った時間が流れ、生き物は秩序を持って空間を移動している。そう言う事を想像すると、心が震えました。・・・私自身の時も空間も、もしかしたら別の姿を持っているのかもしれません。

いつか、八木さんや水越さんの見たものを見てみたいと、心から思います。貧弱な現代人としては技術も体力も覚悟も必要ですが・・・そこへ行って初めて知る時間の感覚を、感じたい、そしてそれをやはり音楽に注ぎたいと思います。

水越さんの「写真の構図は、リズム、そして緊張感です」「迷ったら、省く」と言う言葉には、シブい!!!!と叫びたかった・・・!マイルスの「吹く事がなかったら、黙れ」と、重なりました。


2015/08/02

primitive eyes


私の中学生の頃の夢は、「野生動物と生きながら作曲をして生きる事」だった。きっかけは、アフリカに住む獣医の女性が書いた随筆を読み、彼女が野生動物たちと交流しながら生活するさまに心底憧れたからだ。まあ単純といえば単純、いったい野生動物と生きながら曲を作る人物の仕事は何??と謎の多いものだが…当時の私の言いたい事はもの凄く良く理解できる上に、今でもその夢の根本は生き続けている。いや、むしろ近年ますますその根本が問い直されている、エッセンス満載の素敵な夢だ!我ながら。

さて、そんな事を思いながら最近前髪を切り過ぎた娘の髪型を見ていて思い出したのが、『奇跡の少女ティッピ』だ。前述したような夢を持つくらいの私、このティッピの事が昔から大好きだ。ヒョウ、シマウマ、象、ダチョウ、トカゲ、カエル…様々な野生動物とまるでディズニー映画の主人公のように話をし戯れあい、さらにサン族やヒンバ族とも親しく深く交流したフランス人の少女。彼女の両親が写真家というだけあって、ティッピと動物の写真は本当に儚く美しいものばかりだ。

幼い頃から野生動物に囲まれて育ったからといって、誰もが彼女の様になれた訳では無いのだろうと思う。様々な条件が重なってはじめて、ティッピと動物の友との夢の様な関わり合いが生まれたのだろうな。ティッピの生活は都会で生きる人々にとっては非現実的でロマンのある話題だったのだろうけれど、当のティッピにとってはただただ普通で幸せな事だったのだと思う。

私の娘は日本で普通に暮らしているが、当時のティッピと同じ様な目をしている。猫も犬もぬいぐるみもイラストも、 「目」や「口」のあるものはなんでも仲間だと思っている様だ。仲間というか同列というか・・・この平等な感覚は、得難い。これから社会の中でどんどんと区別されて行く感覚だ。一旦区別されて差別されていったものは、何十年もかけて智慧と経験で再びひとつにまとめていくしか無いが、今の娘くらいの年頃の子供の無邪気さは、世界中どこに生まれ育っていても、同じく「ある」ものなのだと思う。それは本来の生の平等を知らせてくれる、大人にしか気付けない大切な事だ。

初めは皆純粋だった。

それにしても、ティッピの鼻歌素敵ね。